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なんか感動した記事


みんなで食べて、みんなで生きる

【カトリック浅草教会】

2017年6月18日 キリストの聖体
・ 第1朗読:申命記(申命記8・2-3、14b-16a)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント10・16-17)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ6・51-58)


【晴佐久神父説教】

 「みんなで一緒ごはん」っていう、そういう話を、このところずっと、続けておりますけれども。
 浅草教会には、「一緒ごはん」をするい〜い部屋があるんですよ。ご存じですか? 司祭館の1階の、会議室みたいな部屋ですけれども、まだ覘のぞいたことないっていう人は、ぜひ、今日ちょっと覘いていってくださいね。一緒ごはんに、ぴったりの部屋です。
 何がいいかっていうと、真ん中に、丸い大きなテーブルがあるんですね。 まあるい、・・・そうですねえ、直径1.6メートルくらいあるかな。その丸いテーブルの真ん中に、またもう一つ、丸い台が載ってるんです。カラカラって回るやつね、よく中華料理屋にあるでしょ。  で、これがまた便利なんですよ。みんなで囲んで食事してるときにね、「ドレッシクングこっちに」とか、「パンを回して」とかって。でも、他の人も回すんで、取ろうとすると行っちゃったりするんですけどね。(笑) あのテーブルはホントにシンボリックです。「みんなで、ここで食事をしてほしい!」って言わんばかりのテーブル。周りに椅子がちょうど12脚。最後の晩餐みたいでしょう? ちょうど昨日も「福音カフェ(※1)」の学生たち、周りを囲んで一緒に食事をした。幸せな時間でした。
 などと思いつつ、今日の『聖書と典礼(※2)』の表紙を見るとですね、・・・ちょっとご覧いただきたいんですが(※3)、これ、うちの部屋じゃないですか?(笑) 誰が見たって、うちの司祭館の1階ですよ。丸いテーブルの真ん中に、丸があって、周りを12人で囲んでいる・・・と。で、丸いパンが12個並んでいて、み〜んな手を伸ばしてパンに触れてるんですね。12世紀にシリアで描かれた、ミサで使う福音書の表紙か挿絵か。もう千年も前の、ぼくらの先輩のキリスト信者たちが、熱い思いでこの絵を描いたんですね。み〜んなで、まあるく一つになって、一つのパンを食べている様子。
 これが私たちの本質だ、
 これがイエス・キリストの愛そのものだ、
 ここから離れちゃダメだぞ!
 ここで私たちは救いを味わってるんだ、
 ・・・そういう絵。
 まあ、この12人も、それぞれ、その後いろいろ苦しんだわけですよね。あるいは、それこそシリアなんて、今なお大変な現場ですけれども、シリアの12世紀(※4)がどんなんだったか、私は無知で知りませんけど、み〜んな苦しんでたんじゃないですか? そんなときに、聖書を読んで、この絵を見て、励まされ救われて、希望を新たにした大勢の人たちのことを思います。

 さっきパウロがね、面白い言い方をしてました(※5)。この絵の上にも書いてある、1行ですね。
 「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です」 (一コリント10:17)
 これ、よく読んでみると、不思議な言い方ですよ。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です」って、普通に考えたら、
 「パンは一つでも、わたしたちは大勢だから、パンはたくさんに分かれます」
 ・・・そういうことでしょ? みんながそれぞれパンを食べたら、パンはバラバラになるじゃないですか。普通に考えたらそうなんだけど、「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です」 (ibid.) ということは、パンは、分かれないんですね。神秘的なイメージですけど、パンはそれぞれの人が食べても、分かれないんですよ。まあちょっと変なイメージですけど、
 「わたしたちは大勢だけど、一つのパンに食べられてる」、
 そんな感覚なんです。パンの方が格上というか、イエスさまの方が強いというか、私たちがバラバラだから、イエスさまもバラバラにしちゃうっていうんじゃなくって、イエスさまは一つで、そのイエスさまに私たちは捕まっちゃった、つながれちゃった、飲み込まれちゃった、もう離れられず、一つにされてしまう、・・・こういう感覚ですね、「パンは一つ」って。
 私たちは、確かにバラバラで、それぞれに苦しんで、互いに争ったりすらしているけれども、でも、「パンは一つだから、それを食べる私たちは、もはや一つなんだ」っていう、これはもう、人間の感覚や論理を超えてます。あの人好きとか嫌いとか、バラバラになったものはもうつながらない、そんな常識を超えてる。私たちは、今日も一緒にパンを食べますけれど、そのとき、もうイエスさまに飲み込まれちゃって、ぼくらはそこから離れられない、バラバラになることができない、一つに結ばれてしまっている。・・・このイメージは、「キリストの聖体」の日のイメージとして、すごく大事です。
 普通には、私たち、個人としての自分の救いのことを考えてますから、ご聖体を頂いても、「ああ、私のうちに救いが来てくださった!」みたいに、個人的体験のような感覚になりがちなんですね。でも、実際は、一つのパンを食べたら、もうぼくらは、一つにつながっちゃうという、とってもダイナミックな出来事なんです。
 皆さん、救われるときは一緒なんです。誰かが救われて、こっちは滅びるっていうことがない。もう、一つにつながっちゃってるから。この感覚は、やっぱりキリストの聖体の日に、特別に味わうべき感覚じゃないでしょうか。
 イエスさまは、「わたしを食べる者は永遠に生きる」と、そう言いました(cf.ヨハネ6:51,58) (※6)。ほかの食べ物みたいに、食べたけど消化して、そしてやがてはその人も死んでしまう、そんなものとは違う、と。
 「わたしを食べる者は永遠に生きる」
 これを、個人のこととして考えないようにしましょう。「私たち」です。みんなで食べて、みんなで生きるんです。永遠に。
 ですから、キリストの聖体の主日に、今日もご聖体拝領しますけど、本当を言えば、かつて神学校でやってたように、みんなで一斉に食べるっていうのもいいんですよね。なかなか、この人数だと無理ですけど。神学校では、神学生が、祭壇をぐるりと輪になって囲んで、司祭が一人ひとりの手にパンを載せてくんですね。だけど、すぐには食べずに待っていて、全員の手に渡し終えたら、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧。あなたを置いて誰のところに行きましょう」と唱えて、一斉に食べる。神学校のパンは、ちょっと固いやつだったから、一斉に、バリバリ・・・・と音が響き渡るわけですけど、(笑) あれはホントに一致の体験です。「イエスさまをみんなで食べた」っていうより、「イエスさまに、みんな一緒に包み込まれた。みんなイエスさまの中に入った。・・・もうだいじょうぶ!」って、そんな感覚なんですよ〜。
 ご聖体は、まあるいパンを使いますけれども、それは非常にシンボリックです。12世紀のシリアの人たちも、まあるいテーブルを描きました。そして、まあるいパンをそこに載せて、12人がみんなまあるくその周りを囲んで、みんな手を伸ばして、しっかりパンを触っている。
 当時はね、文字を読めない人が多いですから、こういう絵を見て、「そうだ、そうなんだ! もう決してここから離れないようにしよう」って、昔の人もそう思いつつ、一緒にミサに与ってたわけです。だから、ここにお集まりの皆さんも、一つに結ばれた者として、今日は特別に、イエスさまの中に入ってまいりましょう。

 浅草教会に、ステキなノートがありますでしょ、ご存じですよね。来た人が、記念にちょっと書いていくやつね。来訪帳っていうんですかねえ。よく、巡礼に来られた方とか、ちょっと寄った方が、「静かな気持ちになりました」とか、「きれいな聖堂ですね。癒やされました。ありがとう」とかなんとか、みんな書いていくわけですよ。
 それが昨日、不思議なことがあったんです。滅多にそのノート見ないんですけど、ふっと見たら、一番新しい欄に、知ってる名前が書いてあったんです。
 その彼は20代の青年ですけど、前の教会にふらりと現れた青年で、うつを患っていて非常に苦しそうでした。その当時、他にも精神科に通院しているような青年たちが何人も来ていたので、その彼のこともあって、「こういう仲間たちの集まりをつくろう。みんなで一緒にごはんを食べて、つらさを分かち合おう」っていう思いで、よくみんなを集めては、一緒にご飯を食べたりし始めました。
 彼はみんなと仲良くなって、だいぶ元気になったし、一緒にキャンプにも行った。でも、やがてまたうつが悪くなって、教会にも来なくなり、まったく音信不通になりました。・・・まったく音信不通。アパートに訪ねていったら、ちょうどアパートは取り壊されて、引っ越しちゃった後。電話をかけても通じない。でも、私にとっては、一緒ごはんした仲は、家族も同然ですから、ず〜っと気になっているし、仲間たちみんな、「どうしてるのかねえ、また会いたいねえ」って、よく言っていた。それが、もう3年以上前です。
 その彼の名前がね、昨日、そのノートに書いてあったんですよ。だから、「ああ、あいつ、ここに来たんだ・・・!」って、私、ビックリしたし、うれしかった。三日前の日付でしたけれど、「静かな気持ちになりました。教会、やっぱりいいですね」とかって書いてある。で、私ね、もう電話が通じないのは分かってるんですけど、消せない番号ってあるじゃないですか。なんか、別れた恋人の番号みたいに、(笑)ず〜っと残してある番号。もう意味ないんですよ、「おかけになった電話番号は・・・」って言われるんだから。その、消せないでいた彼の番号に、ふと、かけてみたんですよ。もちろん、かからない。「おかけになった電話番号は・・・」って。そりゃそうだよね。
 ところが、しばらくしたら、私の電話に、見知らぬ電話番号から電話がかかってきた。で、「どなたですか?」って言ったら、その彼だったんですよ。不思議な偶然。
 彼は言いました。「ずっと気にしていたけれど、ふと会いたくなって、転任した先の教会をお訪ねしてみました。会えるかなと思ったけど、会えなかった」って。水曜日で、私、上野だったんですね。だから、「ぜひ会おうよ」って言って、それこそかつて、彼のために始めて、その後発展している、「心の癒やしを求める青年たちの集い」に誘ったら、「そんな集まりになってたんですか」って喜んで、次回、来てくれることになりました。みんな、ビックリするだろうな。喜ぶと思うし、また一緒にミサに出てくれたらどんなにうれしいか。懐かしい彼の顔が思い浮かびます。それこそ、さっきお話しした、うちの丸いテーブルに彼も座ってくれたらと思うと、胸が熱くなります。
 こういう出来事って、イエスさまが、私たちを決して離さないっていうことの、しるしなんですよ。ふっと、またあの神父に会いたいなと思うとか、直接行ってみようと決心するとか、たとえ会えなくとも勇気を振り絞って電話してみるとか。彼にしてみたら、すごく勇気のいることなんです。うつの人って、基本的に、「私なんかは意味がない」と思ってますから。「こんな私の連絡は迷惑だろう」って思ってますから。「恩を仇あだで返すように連絡の取れなくなった私を、きっとみんな怒ってるだろう」、そう思ってますから。この、自己肯定感の低さというか、自分の罪悪感というか、そういう恐れを抱えて生きている、うつの人の闇は、本当に深い。
 でも、その彼を救うのは、横のつながりなんですよ。結ばれている友人たち、一緒にごはんを食べた仲間、そことつながることが、結局、イエスさまとつながること。一つに結ばれているって、そういうこと。
 十字架のしるしを思い浮かべてください。縦の線と、横の線。私たちは、縦の線で神さまとつながってますけど、それだけじゃ足りない。横の線が必要なんです。み〜んな一緒に救われなくっちゃ、「救い」っていわないんです。「私」だけ救われてどうするのっていう話でしょ。み〜んなつながっていれば、そこに救いが実現する。
 だから、私が救われるためには、神とつながるとともに、みんなとつながる。これが十字架のしるしの本質です。「みんなとつながらないで、私だけ救われよう」っていったって、それは無理だし、「私は救われたけど、みんなが救われない」って、それもありえない。・・・つながっちゃってるんだから。
 イエスさまが十字架の上で、手をぎゅーっと広げて釘づけにされてるのは、「これが救いだ」と、私たちに見せてるんです。地上のすべての人とつながり、隣の盗賊とすらつながってることの、目に見えるしるしです。
 私たちが、この聖体の主日に味わうべきは、自分と神との縦の関係もさることながら、み〜んなで食べてるっていう水平の喜び、安心、希望です。み〜んなで一つのパンを食べてるから、「私」は救われる。み〜んなも一緒に救われる。だから、隣の人と、もうちょっとつながろうという、その思いで、今日の聖体拝領をいたしましょう。
 イエスさまが、私たちを、ホントに一つにつないでくださいますように。
 この私が、みんなとつながって、みんな一緒に神の国に入ることができますように。

私たちと一緒のご飯を食べたい、そう思ってくださる人がひとりでも増えますように。
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